【創作物語】三つの名前を持った猫 その10

 それから五年余り平穏な時が流れた。
 私は、いつもおばあさんの目の届く所にいるようにした。
 それは、穏やかで満ち足りた日々だった。
 おばあさんが、八十の誕生日を過ぎた頃から、少しずつ寝込む日が多くなった。
 娘さんが、仕事帰りに毎日立ち寄るようになった。
 おばあさんは、自分のことより、いつも私を、気づかってくれた。
「ミー子にちゃんとご飯をあげてね、お水も忘れずに取り替えてあげてよ」
 おばあさんは、入院も、デイサービスに出かけるのも嫌がり、在宅サービスを受けることを望んだ。時々、お医者さんが見えて、診察をして、娘さんが、仕事帰りに薬を取りにゆくというパターンになった。
 私にはおばあさんの優しさが、痛い程わかった。自分が留守にしている間の、私の世話や、それ以上に、私が居なくなってしまわないかと心配しているのだ。
 おばあさんが、ほとんど寝たっきりになると、昼間は、デイサービスの人が、掃除や食事作りにくるようになった。
 私は、いつもおばあさんのベッドの足元で寝るようにした。
 おばあさんは、時々私を呼ぶ。
「ミー子や、そばに来て顔を見せておくれ」
 私は、起き上がっておばあさんの枕元へゆき、彼女の顔をペロペロ舐めると、とても喜ぶのである。
「ミー子、おまえは賢いね、私の言うことがよくわかるんだね」
 そう言って弱弱しい手で、そっとなぜてくれる。
 食の細くなったおばあさんは、とうとう何も食べなくなって、水分だけしか取らないようになった。
 殆ど眠ってばかりいるおばあさんが、時々目を開けては、弱弱しい声で呼ぶ。
「ミー子、ミー子」
 おばあさんのほっぺを、ぺロぺロと舐めて返事をするとおばあさんは、安心したようにまた眠るのだ。
 水だけで一週間過ごしたおばあさんが、急に目を覚まし、しかりした口調で話し出した。
「ミー子や、こっちへきておくれ」
 足元から枕もとへ移動すると、私の目をじっとみて言った。
「ミー子や、永いこと傍におってくれてありがとうね。もう迎えが来ているから、私は逝かねばならない。私が逝ったら、ミー子は、元のお家へ帰るのだよ、約束だよ。幸福に暮らすのだよ」
 そう言うと、何処にそんな力が残っていたのかと思う程、ぎゅうっと私を抱きしめた。
 私は、おばあさんが逝ってしまうと思っただけで悲しくって泣いた。泣きながらおばあさんのほっぺをなめつづけた。

 それからしばらくしておばあさんが息を引き取った。
 お医者さんやら、娘さんの家族、近所の人達とたくさんの人が出入りして通夜の用意が始まった。
 出入りする人の、邪魔にならない所に座って私は、一晩中おばあさんを見守っていた。
感謝を込めて:
「この猫は、ちゃんとおばあさんを供養しているよ、かいがってもらった恩を忘れてないんだね」
 みんなは口々に言って、しきりに感心していた。
 通夜が明け告別式は、葬儀社で行なうということで、九時には棺が運び出された。
 おばあさんの入った棺が、車に乗せられて告別式場へ行くのを見送った。
(ミー子、気をつけて帰るんだよ)おばあさんの声が聞こえた気がした。
 急に、中田家のみんなの顔が浮かんできた
 優兄ちゃん、鴻くん、お父さん、お母さん
お爺さん、お婆さん、アル兄ちゃん、お母さんのように優しいオマ姉ちゃん、みんなの顔が走馬灯のように私の頭を駆け巡った。
(帰ろう、なつかしい我が家へ帰ろう)と走りだしていた。
 棺が運び出されると同時に、あんなにおばあさんに寄り添っていた猫が居なくなった、と人々は不思議がった。
 今、懐かしい我が家のサンルームにかけ上がって震える胸を落ち着かせようと、深呼吸を一つする。
 それからニャー(開けて)と声をかけた。
 以前のように、オマがカーテンの隙間から顔を出して、私を見てびっくりしていた。
 それから家の中に向かって、ワンワンと知らせる声がした。
(あぁ~、帰ってきたのだ。もう金輪際どこにも行かないでおこう。マル子という名前に戻るのだ)嬉しさに心が震えた。
 おばあさんがうれしそうに、ウン、ウンとうなずいているのが見えた気がした。
                完

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